本草薬膳学院創立10周年記念大会並びに日中薬膳シンポジウム
2012年6月24日(日)
記念大会主催:本草薬膳学院創立10周年記念行事実行委員会
日中薬膳シンポジウム主催:本草薬膳学院・日本国際薬膳師会・中国薬膳研究会・北京中医薬大学・河南中医学院
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基調講演その1
『黄帝内経』の「臓」と「腑」の概念
北京中医薬大学 翟双慶 教授
十二の臓腑の概念基準―蔵・瀉
『黄帝内経・霊蘭秘典論』では、人は十二の臓腑を持っていると記載されている。しかし、十二の臓腑で、なぜあるものは「臓」と、またあるものは「腑」と区分されているか。それは『黄帝内経・五臓別論』には「蔵・瀉」の基準があり、同様に臓腑を区分する根拠、すなわち“五臓者、蔵精気而不瀉也、故満而不能実”、“六腑者、伝化物而不蔵、故実而不能満也。”(五臓というのは、精気を貯蔵して出さない。そこで常に精気が充満しているため、胃腸のように水穀を受納し、充実することはできない。六腑は消化した食物を伝送するものであり、貯蔵することはできない。そこで水穀が充実しているが精気は充満することはない)という概念である。
蔵・瀉について歴代の解説
“五臓者、蔵精気而不瀉也、故満而不能実”について、張介賓は次のように解説した:“精気は清らかなものであるので排泄してはならず、貯蔵するものである。ゆえに精気が常に充満するため、(水穀が)充実することはできない。”また、王氷の解説では:“精気は満となる、水穀は実(じつ)となる、精気のみ貯蔵ができるので充満する。” それゆえ臓は「蔵而不瀉」、「満而不実」という特徴があると指摘している。“六腑者、伝化物而不蔵、故実而不能満也。” 張介賓の解説では:“水穀は混濁な物質であるので伝送して排泄すべきで貯蔵してはいけない。”また、王氷は:“精気を貯蔵せず、水穀のみ受け入れる。” それで腑は「瀉而不蔵」、「実而不満」という特徴があると明確に示している。よって「臓」と「腑」は明らかに違う組織だと説明している。もともと「臓」と「腑」の二文字の古義は通じており、皆、ものを入れる箱・倉庫・建物である「蔵」「府」の意味を持っている。『黄帝内経』では「臓」と「腑」をよく一緒に「臓」と呼ぶ。例えば、『黄帝内経・霊蘭秘典論』に“十二臓之相使”とあり、『黄帝内経・六節蔵象論』“凡十一臓取決于胆也”などの「臓」の記載にはすべて腑が含まれている。しかし、混同できない場合もある。
陰陽から生まれた臓腑の概念
周知の通り、『黄帝内経』における臓腑の認識と命名はその解剖学を基礎としている。しかし、『黄帝内経』の意味を探ると、いっそう重要なものは“天人陰陽相応”を用い、臓腑機能の特徴を研究することにある。陰陽学説では、天は陽で、地は陰である。陽は与える、陰が受ける。このような天陽、地陰の考え方によって臓腑を認識し、五臓は地の気を受けるため陰に属し、安静・収斂の特徴を持ち、大地のように受け止めて、埋蔵し、万物を生むために、精気を貯蔵する。六腑は天気により生まれ、天のように陽に属する。そのために停止せず動いている特徴がある。したがって天気が瀉を施す。『黄帝内経・五臓別論』では:“胃、大腸、小腸、三焦、膀胱、此五者、天気之所生也、其気象天、故瀉而不蔵。” 精気は形がないので、臓は精気を貯蔵するため、精気の充満が重要となるとあり、“蔵精気而不瀉也、故満而不能実”となる。腑は輸送して排泄を司り、伝化する物は形のある水穀を主として、通降することが大切なので、停滞し詰まってはいけないとある。そのため“伝化物而不蔵、故実而不能満也”となる。これらの論述により『黄帝内経』は天地・陰陽の認識から、貯蔵と排泄の働きにより臓腑の区別を論証していた。
臓腑蔵瀉について『霊枢』の論述
『黄帝内経・五臓別論』に記載されている臓腑蔵瀉の理論は、『黄帝内経』の何篇かでもそれを言及している。 『霊枢・本臓』:“五臓者、所以蔵精神血気魂魄者也;六腑者、所以化水穀而行津液者也。”という論述はこの理論をさらに発展させたものである。また、『霊枢・本神』“至其淫溢離蔵則精失、魂魄飛揚……、智慮去身”、『霊枢・決気』“精脱者、耳聾;気脱者、目不明”などの記述は臓が精神血気を貯蔵しなくなる場合の病症を説明している。『黄帝内経』において、五臓は人体の生理活動の核心であると認識されているため、五臓が精気を貯蔵する働きができなくなると重病となることは、重視しなければならない。『霊枢・本神』にあるように、“是故五臓主蔵精者也、不可傷、傷則失守而陰虚、陰虚則無気、無気則死矣。”六腑は消化したものを伝送するため下降して通じることが重要である。もし六腑が排泄できなくなると、六腑の病気を引き起こすだけではなく、常に五臓の濁った気が排泄できなくなり、五臓に刺激を与え、気機の昇降の乱れを引き起こし、五臓の動きに影響を与える。そのため、『黄帝内経』は六腑実証の治療を非常に重視して、“治病求本”の原則に基づき、さらに“小大不利、治其標”という法則が載っている。実はこれは同様に“伝化物而不蔵、故実而不能満也。”に対する応用である。
中医学の発展に与える影響
『黄帝内経』の臓腑蔵瀉の理論は、意味深いため、後世に影響を与えて伝承されている。 張仲景の『傷寒論』の三陽経は実証が多く、治療は去邪を中心とする。三陰経は虚証が多いため、治療は補虚を中心とする。五臓は精気を貯蔵する働きを主として、精気が満ちることが重要である。精気が損失すれば五臓が虚証となるため、五臓病は虚証が多い。したがって、虚証は五臓に関わることが提示され、五臓から診療し、補う治療を中心とする。例えば、心気虚の動悸、精神不安に炙甘草湯、肺気虚の息切れ、喘息に昇陥湯、脾気下陥の胃下垂などの臓器下垂に補中益気湯、肝血虚のめまい、多夢に二至丸などを用いる。また、腎は蔵精を司り、“封蔵之本”といわれ、漏れることは最も避けたいが、虚証が一番多い臓である。したがって臨床では“腎無実証”の説があり、地黄丸類の中薬が常用されている。六腑は陽に属して、消化したものを伝送するため、“実則不能満”となる。もし、尿・便などの廃物が体内に滞り、濁った気の排泄ができなくなると六腑には実証が多くなる。故に臨床上、実証は六腑の病証に負うところが多いと提示されている。胃気不降による消化不良の嘔吐、便秘の腹痛・腹脹、三焦不瀉、膀胱の気化不行による排尿障害・水腫などは、六腑が排泄、瀉すことができなくなるために生じる病証となる。治療法としては瀉し、通じさせることを主とする。加えて六腑の病気には、気機を通暢し、腑気を通降させる。臨床において、この理論を応用し、外科の急性の腹痛を通裏攻下を用いて治療する。
これだけではなく、蔵瀉により臓腑を論じることによって、比較的高い学術的価値がある。『黄帝内経・五臓別論』には、臓腑の機能は蔵瀉の違いがあるが、両者は相互に依存し、相反するけれども同一性があると述べられている。張g氏がいったように:“精気化于腑而蔵于臓、非腑之化則精気竭、非臓之蔵則精気瀉。” 臓の蔵がないと生命活動を維持する物質は適当に保留することができず、生命の活動は行うこともできなくなる。腑の瀉の遂行も不可能となる。腑の瀉がないと精気を作り出すことはできず、臓の蔵も存在しない。この蔵と瀉は、生命の陰陽の対立と統一の概念を包括しており、互いに調和して、動いている。この考えは人体の新陳代謝の方式を研究することに対し、生命の奥義を探索する重要なことを示唆している。
臓腑蔵瀉の関連性
また、臓腑には蔵と瀉の機能の相違性があるという認識は、その生理機能の特徴を区別することのみに言及しており、完全に対立し、絶対的なものではないとある。実際に五臓の貯蔵には瀉があって、六腑の瀉には貯蔵がある、『黄帝内経・五臓別論』に“魄門亦為五臓使、水穀不得久蔵”という観念はとても巧みにこの観点を明確にした。したがって、臓蔵と腑瀉に対して弁証的に、臨機応変に見極める必要がある。
『黄帝内経』は蔵瀉論により臓腑の基本概念を確立したため、中医学理論の発展において基礎を定め、臨床にも重要な指導的価値がある。